バスに揺られていると、かすかな歌が聴こえたような気がした。歌っている本人にしか聴こえていないような、誰のためでもなく自分のためだけに発せられたようなそれは、とても美しかった。
声の主はおそらく、全身をアバヤという民族衣装に身を包んだ若い女性だが、果たして女性かどうかはこの3cmの隙間からは分からない。布の切れ目から、長くて黒々としたまつ毛が窓の外を見つめている。ここは、アラブ首長国連邦である。
2月に開幕したアブダビ音楽祭のオープニングアクトをつとめるために、新日本フィルは総勢78人でアラブ首長国連邦の首都アブダビへと渡った。
中東は多くの日本人にとって、物理的にも精神的にも遠い地域だと思うが、それは新日本フィルの楽員たちも例外ではない。食事は?服は?言葉は? 私達はアラブについてあまりに何も知らなかった。誰かがネットで見た話や、友達の友達が言っていた話を楽屋で噂するような毎日が渡航日まで続いていたのが、今となっては懐かしく微笑ましい。
スーパーのスパイスコーナーの広さも、ラクダミルクの不思議なコクも、深夜まで減らない交通量も、早朝に流れるアザーン(※)の音量も、体感してみるまで分からなかったし、楽屋裏に出されたケータリングのケーキ1つ1つに金箔が付いていたことも、その食器が全てベルナルドだったことも、ホール客席の椅子が日本の1.5倍くらい大きくて、2階席の椅子はもっと大きくてリクライニングまですることも、行かなければ想像すらしなかった。
そもそも私はイスラム教では音楽が禁止されていると思っていたのだ。調べてみると、コーランには直接的にそのように書かれた文言は無いが、解釈の違いや宗派によって音楽が禁止されている所もあるそうだ。アブダビで音楽祭を開き、遠い日本からオーケストラを招いてくれたそのことが、私の想像を軽々と超えている。
アブダビの街には今日もアザーンが鳴り響いているのだろうか。私達はほんとうは何も知らないのに、何かを知っていると思いすぎているのかもしれない。アブダビのバスで隣合った人が女性なのかも、口ずさんでいたのが歌なのかも、私は何も知らない。
それは日本にいても、たとえ身近な人だとしても同じかもしれないと、この旅で気付かされた。隣の人のことを、そして自分自身のことでさえ私達は知った気になっていて、それを自覚すらしていないのかもしれない。
「決めつけないで。知った気にならないで。」アブダビで出会った美しい声は、そんな風に私にささやいたような気がした。
※ 【アザーン】1日に5回、イスラム教の信徒に対して礼拝の時刻を告げる呼び声。定まった文句によって詠唱される。
アブダビで見たあれこれを、楽員達はそれぞれどんな風に受け止めたのか? 新日本フィルnote班でも、楽員達がアブダビで感じたことを書き綴っています。こちらもあわせてお楽しみください。

(2025年3月定期演奏会プログラム掲載)