いつも楽器ケースの奥に入れて、お守り代わりに持ち歩いている祖父の写真です。
祖父は僕が中学1年のときに亡くなったのですが、その後音楽高校に進んだとき母からこの写真を渡され、祖父がヴァイオリンを弾いていたことを初めて知りました。
写真は祖父が学生時代のもので、この後戦争に行き、学校の先生になったと聞いています。

 

僕は大のおじいちゃん子で、祖父が大好きでした。
祖父は滋賀県から僕らが当時住んでいた新潟をよく訪ねてきてくれ、公園、遊園地や動物園など行楽地はもちろん、居酒屋まで連れて行ってくれました。将棋を教えてくれたのも祖父です。
孫相手に真剣勝負なので、いつも負かされて何度か泣いたのを覚えています。会えないときは毎日電話をかけてくれ、「はと(勇人)がんばれ」などと書かれた葉書もよく送ってくれました。

ですから祖父が脳溢血で急死したときは、しばらく受け入れられずにいました。
亡くなる前日かかってきた電話に留守だった僕が出ることができず、「いないのか、じゃあ明日にしよう」と言い残したのが最後になってしまったのも心残りでした。
一番の心残りは、音楽家になった自分を祖父に見せることができなかったことです。
不思議なのは、僕が幼稚園のときからヴァイオリンを弾いていたのを知っているのに、なぜ自分がヴァイオリンを弾いていたことを一言も話さなかったのだろう、ということ。
あんなにたくさんの時を一緒に過ごしたのに、音楽の話を一度もしなかったのはなぜなんだろうと。
僕の発表会に来てくれてもなにも言わないので、祖父は音楽のことは知らないのだろうと思っていました。
新日本フィルで弾いているのを一度でも聴いてほしかった。特にうまくいかなくて落ち込んでいるとき、祖父と話をしたくなります。一緒に飲んで話を聞いてほしかったなと思います。

 

この写真が伝えてくれるのは、あの大変な時代に祖父がヴァイオリンを弾きたいと思ったという「気持ち」です。
僕自身、ヴァイオリニストになろうと決めたのは、自分の意志からでした。やろうと決めたときの「気持ち」が宝物ではないかと思います。

ですから祖父が脳溢血で急死したときは、しばらく受け入れられずにいました。
亡くなる前日かかってきた電話に留守だった僕が出ることができず、「いないのか、じゃあ明日にしよう」と言い残したのが最後になってしまったのも心残りでした。
一番の心残りは、音楽家になった自分を祖父に見せることができなかったことです。
不思議なのは、僕が幼稚園のときからヴァイオリンを弾いていたのを知っているのに、なぜ自分がヴァイオリンを弾いていたことを一言も話さなかったのだろう、ということ。
あんなにたくさんの時を一緒に過ごしたのに、音楽の話を一度もしなかったのはなぜなんだろうと。
僕の発表会に来てくれてもなにも言わないので、祖父は音楽のことは知らないのだろうと思っていました。
新日本フィルで弾いているのを一度でも聴いてほしかった。特にうまくいかなくて落ち込んでいるとき、祖父と話をしたくなります。一緒に飲んで話を聞いてほしかったなと思います。

 

この写真が伝えてくれるのは、あの大変な時代に祖父がヴァイオリンを弾きたいと思ったという「気持ち」です。
僕自身、ヴァイオリニストになろうと決めたのは、自分の意志からでした。やろうと決めたときの「気持ち」が宝物ではないかと思います。