執筆:鉢村 優(音楽評論)
■スヴァンテ・ヘンリソン:Suite Off Pist(1996年、2018年)
スウェーデン出身の作曲家ヘンリソン(1963- )は北欧の主要オーケストラで首席コントラバスや首席チェロ奏者を務めた経験の持ち主ながら、ロックやヘヴィ・メタル、ジャズでも活躍する異形の天才である。
スウェーデン公共テレビ局の委嘱で『Off Pist』が1996年に作曲され、後に2つの楽章が書き足されて3曲からなる組曲になった。ソプラノ・サックス奏者A.ポールソンとの共演のために作曲され、彼に献呈されている。着想の源はふたりの共通の趣味アルペンスキーである。Off Pist(オフピスト)とはスキー場でコースから外れた場所のこと。立入禁止エリアに飛び出した音楽は音域や奏法を拡大し、ジャンルの垣根を飛び越えるのである。
第1楽章はスウェーデンの民俗楽器ニッケルハルパを思わせる素朴で力強い幕開け。この主題は繰り返し登場してクラリネットに追い風を吹かせる。第2楽章はひそやかに始まり、風に吹かれてパウダースノーが舞い上がる。リズミカルで力強い中間部が対比をなしている。第3楽章は探るような掛け合いから始まる軽快な楽章。絶え間ない8分音符の連なりが“8の音型”――すなわち無限∞に向かって駆けていく。
■ジャン・クラ:弦楽三重奏曲(1926年)
フランスの海軍士官クラ(1879-1932)はドビュッシーらフランスの先達から多くの影響を受けつつ、航海や外国での経験から受けたインスピレーションによって多くの室内楽や歌曲を生み出した。彼の代表作である本作は、力強く艶やかな重奏や遠い異国の薫りにドビュッシーの弦楽四重奏曲(1893年)の影響が感じられる。
第1楽章はチェロの刻みに乗って上声のデュエットが伸び上がる。力強い八分音符は明らかに出航のエンジン音である。風が吹き、鳥が鳴き、船乗りは忙しく立ち回る。音楽はやがて外海に出たように落ち着き、冒頭の主題が広やかに発展していく。第2楽章は独創的な緩徐楽章。中間部はたっぷりとした波間でヴァイオリンがアラブ風に歌い始める。シェエラザードのように妖艶な独白を歌い継ぎ、夜の波間に消えていく。第3楽章は軽快なピチカートに乗ってヴィオラが中国風に歌い始める。半音階的な進行やグリッサンド、ピチカートなどを用いてシノワズリは表情豊かに疾走する。第4楽章で船はいよいよ寄港地に近づく。波は細やかになり、舳先は銀に輝く水しぶきをまとう。まだ見ぬ世界を前に沸き立つ心のように、音楽は力強く加速して終わる。
■ヨーゼフ・ラーボア:ピアノ五重奏曲 ホ短調 op. 3(1886年出版)
ウィーンで活躍したラーボア(1842-1924)は作曲家・教育者として生前高く評価されていた。その生涯を支えたのは名家ヴィトゲンシュタイン家であった。同家はブラームスら当代一流の音楽家が集うサロンに彼を招き、楽譜出版をも支援したのである。ラーボアの業績には「左手のための協奏曲」という分野の開拓もある。ピアノの弟子パウル・ヴィトゲンシュタインが第一次大戦で右手を失うと、彼は左手だけで演奏できる小さな協奏曲を作曲した。こうしてパウルは左手のピアニストとして演奏を再開し、ラヴェルやプロコフィエフといった多くの作曲家に新作を委嘱することになる。
本作は、当時ピアノ五重奏曲で主流だった弦楽四重奏+ピアノという編成ではなく、コントラバスを含むより古典的な編成を採用している。ただしその用法は画期的で、フンメル(1802年)やシューベルトの『ます』(1819年)など旧来の作品でコントラバスは補助的な立場だったのに対し、ラーボアは初めから独立した声部として扱い、随所で名独奏をも与えているのである。
第1楽章はまるでブラームスのようである。雄渾な強奏と繊細な哀愁が交代して曲は進む。第2楽章はスケルツォ。中間部では野太いコントラバスが嘆き、そしてたっぷりと弾む。第3楽章はチェロの抒情的な独奏で始まる。コントラバスの訥々とした独白も悲愴さをたたえて独創的である。第4楽章は力強い総奏で始まる。悲壮なホ短調で塗りこめた雲間をさいて、繊細な色彩の綾が差し込む。コラールのような斉唱に導かれてフーガ風に展開したのち、激烈なトレモロの追い風を受けて堂々と終わる。